午前9:30。 眩い日差しを浴びる中、茜は四葉邸のある南麻布へとやって来た。 閑静で古い歴史のあるこの街は、駐留する外交官が住むモダンな建物も多く気品が漂っている。 

「えっと、この先が記念公園・・・ ここを右に折れて真っすぐ進めば青木坂ね」

はじめて訪れる高級住宅街に胸躍る茜は、今日の無事を祈願すべく通りにある神社に立ち寄った後、住宅街へ繋がる青木坂に向かった。 

「へぇ、これが有名な青木坂ね。 意外と細くて急なんだ・・・」

そして色濃い木陰の差す坂を上り切った更に進んで行くと、左手前方に蔦で覆われた白い豪邸が見えた。 四葉物産会長、四葉紫月が住む邸宅である。

「四葉・・・ あっ、ここがそうね。 なんて大きなお家・・・ いけない、見とれてる場合じゃないわ。 早速取り掛からないと」

茜は行方不明になったシャム猫のユキチについて、独自に下調べを行ってきた。

まず回覧板による捜索願いに反応がないことから近隣での潜伏、事故は考えにくい。 そして会長は猫の嫌う香水を自宅で使うことがないことから、棲み心地の悪さが原因でもなく、発情期も視野に入れてみたがユキチは去勢済みで、そういう猫は大抵自ら家を出て行く理由は少ない。 

「いなくなって今日で8日目・・・ 家以外の場所に潜む理由はどこにもないわね。 だとすると連れ去りか何か・・・」

茜は空一面のいわし雲を見上げユキチの居場所について考えていると、

「もしもし?」

と背後から声が掛かった。 振り向くと、そこには杖を突いた白髪の小柄な老婦人が立っていた。

「どうかなさいまして?」

「あっ、いえ・・・ ジョギング中に道に迷ってしまいまして・・・」

嘘をつけない性格の茜は、咄嗟の問いかけに口ごもりあからさまに不自然な様子。

「どちらへ向かわれます?」

「えっと・・・ どこだったっけ?」

茜は焦りながら携帯電話の電源を入れ直すと、さっきまで見ていたユキチの写真が画面いっぱいに映し出された。 

「あら? その猫ユキチじゃないの?」

老婦人は驚いた様子で茜が持つ携帯を食い入るように見てきた。

「えっ? この子知ってるんですか?」

「知ってるも何も・・・ それは私の飼い猫よ」

とにこやかな表情で返してきた。

「失礼ですがあなたはもしかして・・・」

「四葉です。 そういうあなたはもしかして探偵さん?」

目の前にいる白髪の老婦人こそが四葉物産現会長、四葉紫月その人であった。 

「あっ、ご挨拶が遅れて申し訳ございません! 私、鎧塚探偵事務所から来た神保茜と申します。 この度はご依頼いただきありがとうございます」

目を白黒させながら深々と首を垂れる茜ににっこり微笑む紫月。

「お若いのにしっかりしておられるのね。 あなたの声・・・ もしかしてあの時の電話のお方?」

「はい、私が応対させていただきました」

「ごめんなさいね、本来であれば私の方から伺うべきなのに・・・ 見ての通り足が不自由でね、代わりに息子にお願いしたのだけれどユキチがいなくなったことは誰にも話すなって。 だから手紙で依頼させていただいたの」

「そうだったんですね、どうぞお気になさらないでください。 うちの事務所はどんな形でも依頼はお受けしますので!」

「ありがとう。 それより、もしお時間あるなら少し上がっていかれては?」

「すみません、せっかくのお誘いなのですが今からユキチの・・・ いえ、ユキチ様の調査を始めなくてはいけませんので」

「ふふっ・・・ ユキチでよくってよ。 随分と真面目な方ね」

ガガガ・・・

と、突然四葉邸の正門が開き始めた。 

ブォオオン!

と敷地の奥から低いエンジン音が鳴り、ほどなくして一台の赤い高級スポーツカーが現れた。 そして門の傍にいる二人の前で停車すると、ゆっくりウインドウが降りていく。 中にはカジュアルな服に身を包んだ40代半ばの紳士が一人。 四葉物産現社長、四葉幸太郎だった。

「母さん、今日も暑くなるそうだからあまり遠くまでいかないでくれよ」

「そう言うあなたはどこへ行くの?」

「ちょっと会合へ・・・ じゃ、急ぐから」

 ブロロロ・・・

幸太郎は茜に目を合わせることなく車で去っていった。 一流企業の社長に似つかわしくない、目つきの鋭い危険な雰囲気を持った男だった。

「ごめんなさいね、ぶっきらぼうな態度で・・・ あの子ったらユキチは何としても俺が探すんだって。 まるで大切な何かをなくしたみたいに、連日ああやって外に出かけてるのよ」

紫月は物悲しい目で車が見えなくなるまで下る坂を見つめていた。

「息子さんもさぞ悲しんでいるのでしょうね」

「いいえ、あの子はユキチに触れたこともないわ」

「えっ?」

「ユキチから近寄ることもなかったの。 なのにどうして今になって・・・」

茜はその時、不吉なことが起こる前に決まって現れる片頭痛に似た痛みを覚えていた。

「さて・・・ 探偵さんも来たことですし、今日ぐらいはユキチ探しはやめておとなしく自宅でのんびりしましょうかね。 もし何かあれば私の電話に連絡くださるかしら?」

「はい、そうさせていただきます」

茜は紫月と別れ、ユキチの捜索へと向かった。

 

一方事務所では、進次郎と日下部が静かに作業していた。

「日下部ちゃん、今日一人でやれそうなの? 櫻子の分まですることになるけど」

「心配ご無用。 櫻子のおかげで場所は特定できたから後は一人でいけるよ」

日下部は1年ほど前から特殊組織犯罪の疑いのある暴力団と貿易商の関係を調査してきた。 規模からして本来は公安の管轄ではあったが、日下部のプライドがそれを許すことができなかった。

「奴らにしてみりゃ、俺たち探偵なんて目の前を飛び回るウザったいハエ同然なんだ。 国の方針一つで目の前の獲物も狩れない奴らに正義は守れんよ」

日下部がここへ来る前のこと。 所属していた公安一課の課長佐伯が、拘束した国際手配中の犯人を即日釈放したことに激高。 その後の独自調査で掴んだのは犯人が当時の財務庁官僚の身内で、しかも佐伯とは深い間柄にあったという事実。 大切な仲間の死を金で解決されたも同然の卑劣な行いに、日下部は国家権力との決別に至ったのであった。

「正義か・・・ 本当の正義って何なのかねぇ。 この商売30年ほどやってきたけど、真実を手にしたところで結果泣く人間が増えるだけ・・・ そういう意味では盲目である方が幸せなのかもな」

「かつてオスカー・ワイルドはこう言った。 “善人はこの世で多くの害をなす。 彼らがなす最大の害は、人びとを善人と悪人に分けてしまう” ・・・と」

「相変わらず難しいこと知ってるね。 深くていい言葉じゃないか」

「いや、そうじゃない。 おれはこれが名言とされていることが気に入らないんだよ。 善悪は確実にある・・・ 俺は今ある金や権力で弱いものが苦しむ理不尽な社会を壊したい。 ただそれだけだ」

「すまん・・・ また思い出させてしまったな。 どうだ? 出向く前に一杯コーヒーでも。 今日はキリマンジャロを入れよう」

「いただくよ」

進次郎は日下部の反応に笑みを浮かべると給湯室へと向かった。

 

キキキキキ・・・

遅鳴きの蜩が秋の始まりを知らせていた。

茜はキャップを目深に被り、四葉邸の周辺半径100mにある車の下や側溝、茂みなどにユキチが潜んでいないかくまなく捜索していた。 自動販売機をはじめゴミ一つ落ちていない整然とした街には、猫が隠れるような場所を見つけるのも一苦労。

「今のおじさん、すれ違うのこれで3回目・・・ しかもこっち見てるし相当怪しまれてるわね。 このエリアは諦めて東側にしよっか・・・」

その時、遠くから正午を知らせる鐘の音が聞こえた。

「もうそんな時間? 猫の活動時間に合わせて午後からにすればよかったかな~。 ひとまずボスに連絡入れて休憩ね」

茜は事務所へ経過報告を入れ、調査開始地点でもある四葉邸のある場所へと戻ってきた。 何気に邸宅を見上げると二階の窓から手招く紫月の姿が。 茜は紫月が指さす裏門へと足を運んだ。

ガチャ。

開けられた扉から紫月の優しい笑顔が現れた。

「こんなところからごめんなさいね。 お腹すいたでしょ? よければ一緒にお昼でもいかがか?」

「えっ! とんでもございません! 私まだユキチを探せてもいませんし、その上お食事など・・・」

紫月はブンブンと手を振る茜の手を掴むとにっこり微笑んだ。

「いたのよ」

「はい?」

「いたのよ、ユキチが」

「ええっ! どこにですか?」

「話はお食事しながらでもできるわ。 さあ遠慮せずに中に入って」

「・・・は、はい」

ゆっくり敷地に足を踏み入れると、600坪をゆうに超える広大な敷地を彩る美しく剪定された樹木と、その先に佇む荘厳で気品あるモダンな住居が茜を迎え入れてくれた。 そして裏口から邸宅へ入ると、目を見張るような格式高い暖炉のあるリビングが現れ、更にその先のダイニングテーブルの上には美しく輝く黒い膳が二つ並べられていた。

「どうぞ、そちらへお掛けになって。 茜さんは鰻お好きかしら? ごめんなさいね、最近はお外のものが多くなってしまってね」

「とんでもございません! こんなにしていただいて・・・ 私鰻大好きです」

緊張感から解放されにっこり微笑む茜。

「そう、それはよかったわ。 ここの鰻は焼き加減が程よく、油も乗っていてとてもおいしいのよ。 今お茶を用意するわね」

「ありがとうございます」

それから昼食が始まり、年齢の壁を越えた女二人の楽しい会話が続いた。

「・・・でもね、5年前に主人が亡くなってからは私と幸太郎二人だけでしょ? この屋敷もただ広いだけで」

「幸太郎さんはご結婚なされていないのですか?」

「前に一度・・・ でも遊び癖が抜けきれなくてね。 今は社長という立場なのだけれど、ほとんど出勤せずいい歳してああやって車を乗り回してばかりいるの。 きっと私の教育が良くなかったのよ・・・」

表情の沈む紫月を見て茜は話題を変えた。

「それより、先ほどユキチが見つかったって仰ってましたが・・・」

「あっ、そうね。 そのことを話さなきゃ・・・ 今から1時間ほど前に幸太郎の知り合の女性から連絡があって、その方が言うには青海ふ頭でユキチを保護してるそうなの」

「青海? そんな場所に・・・ でも無事でよかったですね」

移動距離にして約13kmほどの距離を飼い猫自ら出向くとは考えにくい。 つまり何者かがそこまで運んだのではないかと茜は察した。 

「幸太郎さんへは伝わってるのでしょうか?」

「いいえ。 でもその方幸太郎の何かを知っているようで、どうしても直接伝えたいって・・・ 私、あの子が何かよからぬことに関わっているような気がして・・・ 心配だわ」

紫月の不安気な表情を見て、茜はその手を取るとしっかりした口調で言った。

「ここは私にお任せください! 必ずユキチを無事に保護してまいりますので」

茜を玄関先まで見送る紫月。 その時、カーディガンのポケットから花の刺繍の入った一枚のハンカチを取り出した。

「これは私がいつも使っているハンカチよ。 ユキチはこれをとても気に入っていて、いつもこれで遊んでいたの。 もしユキチが怯えていたりしたならこれを渡すと落ち着くと思うわ」

「ありがとうございます」

茜はハンカチをウエストポーチへしまうと四葉邸を後にした。

 

ユキチを入れるための大き目のキャリーバッグを背負い、茜は傾く西日を背に受けながらロードバイクで青海ふ頭へと向かっていた。 途中事務所へ連絡を入れ、進捗状況と保護へ向かう旨を伝えた。

「17時半に青海ふ頭、流通センター南側のコンテナ置き場で保護者と待ち合わせだな? わかった。 18時には日没だからできるだけ早めに片付けてくれ。 あと、要件以外に深追いすることは危険だから避けるように」

進次郎は事務所で一人茜の帰りを待っていた。 素人を調査に向かわせてしまったことへの不安と後悔からか、落ち着かない様子で室内をぐるぐると歩き回っていた。 

「何事もなければいいが・・・」 

ガチャ!

「こんにちはー!!」

「わわっ!!」

突然ドアが開き元気な声が事務所内に大きく響き渡った。 驚きたじろぐ進次郎の目の前に立っていたのは情報屋として出入りする浅野凛だった。  

「あれれ? 誰もいないじゃん。 進君、茜ちゃんは?」

「残念、今日は外だよ。 8時までには戻ってくると思うが・・・  凛ちゃん、その進君って呼び方なんだが・・・」

「嫌い?」

「ううん・・・ 好き」

娘とほぼ同じ歳の女子から君付けで呼ばれる進次郎。 現代社会で生きていくには、時として男としてのプライドも捨てる覚悟が必要だと気が付いたのはここ最近の事。 今では事務所メンバーのいる前でもそう呼ばれるようになり、仲間から失笑を買っているのである。

「で、今回のネタは何だ?」

「聞きたい? でも・・・ 内容が内容だけにちょっとはずんでもらうよ。 あっ、これ銀座で買ってきたマカロンね。 冷蔵庫に入れとくからみんなで食べて」

凛の本業はTV局に出入りする若手スタイリストで、各局をはしごする中で控室などで耳にする情報をこうして進次郎へ売りに来るのである。

「そこまで言うなら特ダネなんだろうな?」

からかうように問いかける進次郎。

「あたり前じゃん! 私がつまんない情報持ってきたことある?」

「そうだな~・・・ 人気俳優の飯田健が実はバツ3だったこととか?」

「ちょっと、あんなのと一緒にしないでよ~。 でもね、あの話未だに知られてないのよ、芸能事務所の力って凄いでしょ? それよりそれより~・・・」

凛は駆け足で日下部の椅子を進次郎のデスク前に転がすと、ミニスカートであることを気にもせず勢いよくそれにまたがった。

「あのね、先週違法薬物所持で捕まった女優の結城カノン。 あの子の身辺探ってたら渋谷の高級クラブの名前が出てきて、噂じゃその背後にとんでもない組織があるっぽいのよ・・・ これ証拠写真ね」

凛が携帯で見せたのは高級クラブから出てくる数人の男の画像。 スキンヘッドのオーナーらしき人物の横に見覚えのある顔が一つ。 進次郎は老眼鏡を掛け顔を近づけた。 

「凛ちゃん、もう少し拡大してくれないか・・・ ん?」

進次郎の顔が強張った。

「もう分かったと思うけど、そのツルツル頭の隣にいる人って四葉物産の社長でしょ? 四葉幸太郎・・・ だったっけ? この前局であたしが担当したからよく覚えてるのよ。 ね? 特ダネでしょ?」

自信に満ちた表情で進次郎を見上げる凛。 まだあどけなさが残りながらも、大人の女性としての色気も感じさせる小悪魔的なその表情に大抵の男は屈してしまう。 無論、進次郎もその例外ではなかった。

「ちょっと待ってろ・・・」

進次郎はジャケットの内ポケットから長財布を取り出すと、そこから3枚の一万円札を取り出し凛へ渡した。

「ちょっと進君、冗談でしょ? これじゃデータは渡せないよ。 この倍は貰わないと~」

ふくれっ面をしてみせる凛に、進次郎は眉間に皺を寄せながら更に3枚凛へ渡した。 それに満面の笑みを返す凛。

「やったぁ! これで欲しかったお財布が買える~! はい、これがデータね。 まいどあり!」

進次郎は画像データが入ったUSBメモリを手に取ると、それをズボンのポケットへしまい込んだ。 後にそれが大事件に発展することを進次郎はまだ知る由もなかった・・・

 

キキッ。

「着いたわ。 時間は・・・ 予定の10分前か」

茜は流通センター脇にロードバイクを置き、待ち合わせ場所の南コンテナ置き場へと歩き始めた。 しばらく歩くと前方に港には似つかわしくない、エレガントな青いワンピース姿の女が立っており、茜は軽く会釈を送ると向こうもそれに応えた。 

「野口さん・・・ 野口玲子さんですか?」

「ええ。 あなたが代理人の方ね?」

「はい、神保と申します。 四葉会長の依頼を受けユキチを引き取りに参りました」

玲子は警戒をしているのか辺りをキョロキョロと見回し、探るように茜にいくつかの質問を投げかけてきた。

「・・・心配なさそうね。 ごめんなさい、疑いをかけるような質問ばかりして。 あなたが探偵事務所から来た人間なら、安心してユキチを渡すことができるわ」

「話せる範囲で結構ですので、もう少し詳しいお話を聞かせていただけないでしょうか。 あなたがどうしてユキチを保護し、それを探そうとする幸太郎さんとあえて距離を取ろうとしているのかを」 

二人はふ頭南端の雑木林まで来ると、港が一望できる芝生広場のベンチに腰を下ろした。 二人の目の前を大型貨物船がタグボートでゆっくりえい航されていく。

「ところでユキチは今どこにいるんですか? 状態はどうなんですか?」

「すぐ近くの空きコンテナの下で寝てるわ。 安心して、とても元気よ」

玲子は30代半ばのエキゾチックな雰囲気を持つ細身の美女で、代官山と青山でペットサロンを経営している実業家だという。 聞けば、幸太郎とは4年前に開催された四葉物産の創立祝賀パーティーで知り合って以来の付き合いらしく、友人以上の関係であることは話の筋から理解できた。 

「彼らと関わるようになってから、あの人は日に日に変わっていったわ・・・ 薬が切れると途端に暴力的になるの。 ほら見て」

ワンピースの裾をたくし上げると、両膝から腿の至る所に痛々しい紫色のアザがくっきりと付いていた。 

「酷い・・・ ところで、その彼らとは?」

「あなたは”Σ”という名前を聞いたことあるかしら?」

「シグマ? 何ですかそれは」

「そうよね、普通の人間であれば耳にしない名前よね。 政治、経済、芸能、スポーツ・・・ あらゆる分野で動く多額のお金には、必ずと言っていいほどそれに群がるハイエナのような連中がいるわ。 Σはその中でも最も危険で非道な闇の組織なの」

「それでも幸太郎さんに寄り添う理由は何なんですか?」

「ホントね・・・」

対岸では赤い夕日を背にした都心の高層ビル群が、絵画のように幻想的なシルエットを浮き上がらせている。 玲子はそれを遠い目で見ながら記憶の糸をたぐるように語り始めた。 

「あの人、根っからの悪人じゃないと思うの。 前に一度、私が彼に合わせようと薬を服用しようとした事があって・・・ その時もの凄く怒って、”お前だけは道を逸れるな、ずっとそのままでいろ” ってね・・・」

玲子はハンドバッグからピルケースを取り出し蓋を開けて見せると、中にはターコイズブルーの細長い錠剤が入っていた。

「それは?」

「奴らが密売しているカンナビノイドを主成分とした合成麻薬で、連中は”ブースト”と呼んでるわ。 東南アジアで生産され、定期便の貨物船を使ってここへ運ばれてくるの。 これはあの人に禁断症状が出た時のために私が持ち歩いているものなの」

勘の鋭い茜はハッと驚いた。

「もしかして・・・ まさかそれを四葉物産が?」

無言でうなずく玲子。 

「いつからなんですか?」

「あの人と付き合い始めた頃だから、もう4年ほど前かしら・・・ 当時もニュースになったけど、四葉物産がインサイダー取引違反で刑事告訴されたことがあるの。 実際はあの人の知人でもある実業家の新規事業の為にと、自身で会社からM&Aに関する未公開情報を抜き出し株取引させていたことが分かって・・・ 最終的にその知人は高額の課徴金だけで済んだものの、四葉物産はその後株価が暴落しあの人も会社の顔としての信用を失ったの」

「そんなことがあったんですね・・・」

「それがきっかけであの人は自暴自棄になり、奥さんと子供を捨て裏社会と繋がるようになったの。 不思議なことにそこから四葉物産は立て直し、完全復活以上の業績を上げるようになったわ」

「貿易ルートを通じた違法薬物の密売・・・ ということですね」

「ええ、今では流通は全国に渡っていて末端価格にして数百億とも。 今となってはもうどうすることもできないってあの人も分かってるはず。 身勝手な女と思われるかもしれないけど私はあの人を助けたいの・・・」

茜は、涙で頬を濡らす玲子の横顔をただ見つめることしかできなかった。

「ニャア・・・」 

と猫の鳴き声が後方から聞こえた。 二人が振り向くと、紫色のチョーカーを首に巻いた一匹のシャム猫がこちらへ向かって歩いてきた。 ユキチだった。 

「あら、起きたのね? おいでユキチ」

ユキチは玲子の足にまとわりつくように身を摺り寄せると、膝の上にピョンと飛び乗り、隣に座る茜をじっと見つめた。 

「はじめまして、ユキチ。 やっと会えたね」

手を差し出しかけたその時、ユキチは軽やかに茜の膝上に飛び移ってきた。

「珍しいわね、この子初対面の人には絶対になついたりしないのに。 やっぱり若くて綺麗な女の子がいいのかな?」  

「私が猫好きだからじゃないでしょうか。 あっ、もしかして・・・」 

茜はウエストポーチから紫月が身に着けていたハンカチを取り出した。 するとユキチはそれを両手でつかみ取り、体に絡みつけるように転がり喜んだ。 

「そうよね、早くご主人様のところへ帰りたいよね」

「でも・・・ 戻ればまたあの人に利用されてしまうわ」

「利用? そもそもなんでユキチが・・・」

「実はその子、取引で使われる金庫の鍵になってるのよ。 虹彩認証システムを使った扉のね」

茜はユキチの脇を抱え顔を突き合せた。

「この虹彩で・・・ 薄暗くて気が付かなかったけど、この子変わった虹彩ですね」

ユキチの虹彩は外側がアクアブルー、内側半分が黄色の”ダイクロックアイ”と呼ばれる異色症の特徴を持っていた。 複雑な光彩を持つほど高いセキュリティを発揮できるとあって、ユキチは鍵として利用されていたのだった。

「一度は私の店へ連れて行こうとしたんだけど、怖がってここから動こうとしないの。 だからこうして隠れてお世話をしてるわけ」

「そうだったんですね」

気が付けば陽は沈み、紫色の空が辺りを覆い始めていた。 

「もうこんな時間・・・ 港の警備員に怪しまれるといけないからそろそろ出た方がいいわ」

「野口さんはこれからどうするんですか?」

「次の取引きは明日の深夜11時。 あそこに停泊している赤い貨物船上で行われることになってるの。 でもユキチがいなければ取引きはできないわ。 私はもう一度あの人に自らを正すよう説得してみるつもりよ」

「野口さん・・・」

「さようなら。 できればあなたとは普通の形で会いたかったわ・・・」

その目から強い決意を感じ取った茜は玲子に別れを告げ、ユキチの入ったバッグを肩に掛けその場を後にした・・・ 

 

「あっ、神保です。 先ほどユキチを無事保護しました。 ・・・はい、ケガなどもなく元気です。 ただ、数日の間こちらで保護させていただきたいのですが・・・ 理由は後日あらためてお話させていただきます。 ・・・はい、どうぞご安心ください」

電話口の相手は紫月だった。 ユキチを確保した後は速やかに四葉邸へ送り届ける手筈だったが、玲子の情報から今は危険と判断したため、紫月の了承を得て一旦ユキチを預かることにした。 続けて事務所へ連絡を入れると急いで帰路についた。

 

「えっ? 凛ちゃん今飛車取った? 待った! 今の無しでお願い!」

「ダ~メ~。 はい、王手!」

パチン。

事務所では、進次郎と凛が将棋の三番勝負をしながら茜の帰りを待っていた。 結果は2勝1敗で凛の勝利、気が付けば時計の針は20時を回っていた。

ガチャッ。

「遅くなってすいません・・・ ただいま戻りました。 はぁ~、疲れた~」

大役を終えた茜がバッグを抱え転がるように入ってきた。 

「茜ちゃん!」

「おおっ、おかえり! さあそこに座って。 凜ちゃん、冷蔵庫から冷たい飲み物取ってきてくれないかな」

「アイアイサー!」

茜の帰りを待ちわびていた二人は安堵の表情で出迎えた。 そして茜はユキチの入ったバッグをソファに置くと、早速今日の調査について説明し始めた。 

「今回は運よくユキチの保護はできましたが、それにまつわる新たな事実が判明しました」

「というのは?」

「四葉物産とΣと呼ばれる闇組織との間に密接な関係があるようで、明日の23時に青海ふ頭で取引があるそうなんです」

「何だって?」

驚く進次郎の隣でしたり顔をする凛。

「ね? 進君・・・ 私が言った通りでしょ?」

「ボス、ある女性が危ないんです! 早くしないと取り返しのつかないことになるかもしれません」

茜は切迫した表情で進次郎へ訴えた。 

「茜ちゃん、少し冷静になって詳しく話してくれないかな。 まずは一息深呼吸しよう」

茜はゆっくり息を整えると四葉邸からふ頭までの出来事を事細かに、時折悲痛な表情で泣きそうになりながら懸命に進次郎に話した。

「・・・そうか。 すまなかったな、そんな思いまでさせてしまって・・・ でもよく頑張った、本当に立派だよ茜ちゃんは。 明日の取引の件については日下部から警察関係者に取り合ってもらおう」

「うんうん、ホントに頑張ったんだね~・・・ うううっ」

進次郎の隣でもらい泣きする凛は、茜が持ってきたバッグが不気味にうごめいていることに気が付いた。

「わわっ! な、何そのバッグ・・・ 動いてるよ!」

「あっ!」 

その言葉に反応した茜は急いでバッグのジッパーを開けると、中からパニック状態のユキチが勢いよく放物線を描くように進次郎に飛び掛かった。

「ニャア!」 

「イヤーーっ!!」

金切声を上げ事務所内を逃げ回る進次郎に、2人の冷たい視線が突き刺さる。  

「キモいよ進君・・・」

「・・・ねえ。 そんなに怖がらなくても」

茜は失笑しながらユキチを抱き上げるとバッグへ戻した。 それを見て安心したのか、デスクから冷や汗まみれの顔を覗かせる進次郎。 

「茜ちゃん・・・ 今夜はもう帰ってくれていいよ。 明日はゆっくり休んでね」

「ボスは帰らないんですか?」

「・・・ん? ああ、今日はまだやる事があってな・・・」

「そうだ茜ちゃん、今から食事行かない? 近くに美味しいイタリアンのお店見つけたの!」

「うん、行こう行こう。 私お腹ペコペコなの・・・ ボス、おつかれさまでした!」

バタン。

事務所に一人、深々と椅子に腰かけたまま外の夜景を眺めている進次郎。 ハードボイルドヒーロー顔負けのニヒルな笑みは、齢55にしてはじめて味わうぎっくり腰の味だった・・・

「・・・痛い」

 

続く・・・