翌朝。

「そこだけ見れば確かに残念ですけど、茜ちゃんが危険な目に合わなかっただけでもよかったじゃないですか」

「そうなんだが・・・ やっぱり100万欲しかったな~! 事務所改装しかったな~!」

ユキチは無事保護できたものの、第三者の介入が重なったことで報酬が三分の一となってしまったことを進次郎は嘆いていた。

「そういうの金の亡者って言うんじゃないですか? それでも三分の一、33万ですよ! 十分じゃないですか」

やりとりする二人に挟まれ、日下部は黙々と調査報告書を作成していた。 

「日下部さんも何か言ってやってくださいよ。 茜ちゃんに一つ間違えれば命に関わるような調査させておいて、その上報酬減額嘆くなんて酷いですよ」

「金で救える命もある」

と日下部は手元の資料を見ながら呟くように言い放った。

「・・・えっ? 日下部さんもそっち側?」

まさかの回答に驚く井出。

「ボス、ふ頭の件ついては今日中に俺から警察へ伝えておきます」

「ああ、よろしく頼む」 

日下部は荷物をまとめると新たな現場へと向かっていった。 

バタン。

「井出ちゃん、さっきの問いかけタイミング悪かったかもね。 昨日は日下部の奥さんの・・・」

「あっ・・・ そうでしたね。 すいません、失言でした」

3年前、日下部は妻と幼い娘を連れテーマパークで団らんしていたさ中、突如一人の暴漢に襲われる。 犯人はかつて日下部によって捕まり、長年収監されていた薬物中毒の男だった。 突然の犯行に妻はその場で命を落とし、娘も一命は取り留めたものの重い後遺症から今なお入院しているという。 その日を境に日下部はすべての感情を伏せて生きるようになった。

 

その頃、茜は自宅マンションで本を片手に穏やかな朝を過ごしていた。 弥七から遠ざけるように置かれている一つのケージの中には、不安げな表情で部屋の様子を伺うユキチの姿があった。 

「ごめんね、そんな狭いところに閉じ込めちゃって。 少しの辛抱だから我慢してね・・・ あっ、そうだ! あのハンカチをあげれば少しは落ち着くかも・・・」

茜は膝上で寝そべる弥七を床に置くと、ウエストポーチの置いてある廊下へと向かった。

 

一方四葉邸では、険しい表情の幸太郎が携帯を手にせわしなくリビングを歩いていた。 

「いや、まだだ・・・ 今夜の取引までには何とか・・・ ああ、奴がいれば大丈夫だ」

通話が終わるや否や、再びどこかへ電話を掛ける幸太郎。 その奥のキッチンでは不安そうに息子を見守る紫月の姿があった。 幸太郎は話し終えると力なくソファへ体を預けた。

「母さん、今日の定例会議休むから」

「えっ、何言ってるの? 社長のあなたが出ないと会議が成り立たないじゃない。 今日は周年記念式典の打ち合わせなのよ」

「代わりに母さんが出て話だけ聞いといてくれよ。 悪いけど行かなきゃいけないところがあるんだよ」

「幸太郎・・・ いい加減社長としての自覚を持って頂戴」

「・・・」

紫月の言葉を無視するようにその場を去ろうとした幸太郎は、ふと何かを思い出した様子で足を止めた。

「そういえば・・・ 母さん昨日玲子に会ったのか?」

「玲子? 玲子って毎月ユキチのお手入れをしてくれていたペットサロンの? いいえ、会っていないわよ。 どうして?」

「礼子がこれを持ってたんだよ」

幸太郎はポケットから一枚のハンカチを取り出した。

「あら、それは私の・・・ あの探偵さんに渡したはずなんだけど」

紫月の口から出た探偵という言葉に幸太郎は強く反応した。

「探偵?・・・ 母さん、探偵に会ったのか! まさか昨日家の前にいたあの女か」

紫月はこわばった表情で答えた。

「ええ、どうしてもユキチを探してもらいたかったから・・・ この前私が手紙で依頼したの」

「何てことしてくれたんだ!」

幸太郎は鬼のような形相で激高すると、テーブルにあった車のカギを掴み取り行先も告げることなく家を出て行った。

「幸太郎・・・」

 

茜は玄関先をはじめウエストポーチ、キャリーバッグ、洗濯籠など、部屋中のあらゆる場所を確認したが、結局紫月のハンカチを見つけ出すことはできなかった。

「おかしいな~・・・ あっ! もしかしてふ頭で玲子さんと話してたあの時・・・?」

プルルル・・・

とテーブルの上から携帯の着信音が鳴った。 紫月からだった。

「おはようございます、茜です。 ・・・ ・・・はい。 ・・・そんなことがあったんですね。 いえ、すべてはお預かりしたものを紛失した私に責任があります。 申し訳ございませんでした。 そうであればなおのこと、ユキチについては今は内密にお願いできますでしょうか。 それと、あと数日こちらで預からせていただきたいのですが・・・ ありがとうございます。 事情については近いうちに必ず説明させていただきます」

茜は電話を切るとすかさず進次郎へ連絡を入れた。 

「ああ、茜ちゃんおはよう。 ・・・ふむ。 ・・・そうか、わかった。 こういう時は火消しにかからず別の手を打つことが先決だ。 井出が昼過ぎに戻るらしいからその時に手配できるか確認してみるよ。 茜ちゃんはもう気にせずゆっくり休んでいてくれ。 それじゃ・・・」

デスクでは、進次郎が昨晩凛から入手したUSBメモリの画像データを眺めていた。 そこにはクラブ前に止められた高級外車の前でたむろする幸太郎とオーナー、そして取り巻きと思われるサングラスを掛けたスーツ姿の男たち。 進次郎はその最後尾に立つ長身の男が妙に気になった。 手元のキーを叩き画像を拡大していくと、普段見慣れた男の横顔がそこにあった。

「何故だ・・・ 何故お前がそこにいるんだ・・・」  

 

首都高をひた走る一台の黄色いスポーツカー。 ハンドルを握っているのは幸太郎。 そしてその隣には日下部が座っていた。

「とにかく時間がない。 今回は100億クラスの取引だ、絶対に失敗は許されないからな」

「わかってる、だが・・・」

「だが? 何だ」

「今夜の取引がバレた」

「何だと!」

血相を変える幸太郎。 車体が少し揺れた。

「安心しろ・・・ 今のところその情報は俺のところで止まっている」

「なるほど、あんたが国家権力とのパイプ役だったとはな・・・ それで次は俺と取引ってわけか。 で、幾ら欲しいんだ?」

「一億」

「一億?・・・ ふん、調子に乗りやがって。 まあいいだろう。 ただ、そいつを二億にすることもできるが・・・ その条件呑むか?」

薄っすら笑みを浮かべる幸太郎とは対照的に、日下部は表情一つ変えず黙ったままうなずいた。 

 

昼下がり。 事務所では進次郎と井出がコーヒー片手に休憩を取っていた。

「ところで井出ちゃん、昨日の娘さんの運動会はどうだったんだ?」

「いやぁ、よかったですよ~。 保育園生活最後の運動会だったこともあってか、必死で頑張ってる姿見てたら何だか泣けてきちゃって・・・」

「わかるよ、俺も娘の運動会で泣いたな・・・ そういうのは節目ごとにこれからも続くよ」

「そう言えばボスの娘さんって結婚されましたよね? いつでしたっけ?」

「2年前だよ。 いわゆるデキ婚ってやつで、式前日まで何とも言えないモヤモヤがした気持ちでいたんだが・・・ 実際当日になるともうダメ。 お父さん汚いって言われるほど泣いたよ」

「そういう時期がいつかは訪れるんですよね~・・・ 分かってるだけに毎日のふれ合いがどこか切なくて」

「そりゃ早すぎるってもんだ。 今はただかわいい盛りだろ? これから先、親子の間で色んなことがある。 それが良くも悪くも思い出となって後でどっと押し寄せてくるんだ。 思い返せば全ての瞬間が俺にとっての宝だよ」

「それ考えたら、子供って生まれた時から既に親孝行してるんですよね・・・」

「その通り。 ところで今晩一杯どうだ?」

「いいですね! と言いたいところなんですけど・・・ 見てくださいよこの資料の山。 恐らく9時過ぎになると思いますよ」

「それじゃあ久々に宅配ピザでも取るか? 今日は井出ちゃんと二人だけだし、ついでに冷えたビールでキュッと!」

「じゃあ俺は耳にチーズの入ったアレを!」

「おう!」

進次郎は満面の笑みで答える井出に対し、にこやかに親指を立てて見せた。 それが互いが見る最後の笑顔だった・・・ 

 

プルルル・・・ プルルル・・・

茜の携帯に見覚えのない番号から着信が入った。 一向に鳴り止む気配がないので出ることにした。

「もしもし?」

「あっ、玲子です。 ごめんなさい、突然連絡なんかして」 

「野口さん? 無事だったんですね。 私ずっと心配で・・・」

「私は大丈夫よ。 昨日はお話できて嬉しかったわ。 急で申し訳ないんだけど、今日は茜さんに一つお願いがあって・・・ 聞いてくれるかな?」

「はい・・・ どういった内容でしょうか?」

「今更なんだけど、ユキチを引き取りたいの。 あっ、なんていうか私がふ頭で一週間も保護してたでしょ? どうやら情が湧いちゃったみたいで・・・」 

「・・・」

彼女には教えていないはずの携帯番号と下の名前。 そしてどこか辛そうな感じの口ごもった話し方。 何より、ハンカチの一件で幸太郎にこちらの素性が知られたのであれば、私的な理由でユキチを預かりたいとは言わないはず。 何かおかしいとすぐに判断した茜は返答に戸惑った。

「茜さん? 聞こえてる?」

「あっ、はい・・・ ちょっと電波が悪いみたいで。 私は構いませんがどこでユキチを渡せばいいですか?」 

「いいのね? ありがとう。 ところで今ユキチはどこにいるの?」

「私の部屋にいます。 実は今日休暇を頂いているんです」

しばらく間が開き、

「あっ、そうなのね・・・ じゃあ茜さんの勤め先なんてどうかしら。 そこならお互い安心だし。 できれば今晩引き取りたいんだけど・・・ 20時に待ち合わせはどうかしら?」

とどこか焦った様子で返してきた。 茜は何気なくユキチの方へ目を配ると、吸い込まれそうな神秘的な目で「僕は大丈夫」と言っているように見えた。 

「わかりました、では後ほど事務所でお会いしましょう」

「お休み中にごめんなさいね・・・」

そっと通話を切る玲子。 目深に被ったつば広帽の隙間から覗く頬には真新しい打撲痕。 それは昨晩自首を促した玲子が幸太郎から受けたものだった。

「よくやった玲子」

肩に置かれる幸太郎の手にビクリと反応する玲子。

「ユキチを受け取ったら連絡をくれ、一緒にふ頭へ来てもらう。 お前じゃないとユキチは言うことを聞かないからな。 分かってるな? おかしな真似はするなよ」

玲子は無言のまま足早にその場を去っていった。

「これで準備は整ったな・・・ いけるか?」

「ああ」

振り返る幸太郎の目線の先には、黒いトラックスーツに身を包んだ日下部をはじめとする3人の男が立っていた。

 

とある総合病院では、翌朝の手術を控えた櫻子が病室で早めの夕食を取っていた。 4人部屋には櫻子ともう一人いたが、その時は入浴のため不在だった。

「よう、櫻子」

ぬっと病室に入ってきたのは日下部だった。 

「あら、亮さん! こんな時間にどうしたの? やだ、私すっぴんだわ・・・」

「すまん、前もって連絡入れるべきだったな・・・ 来る途中で美味そうなパイ見つけたから後で食べてくれ」

日下部は手土産の洋菓子をベッド脇のテーブルに置いた。

「えっ、それってもしかしてハリマヤの? 私ずっと食べたかったのよ~。 わざわざありがとう。 あっ、その椅子に座ったらどう?」

「いや、すぐに出るからいい。 どうだ具合の方は」

「うん、腫れは引いたんだけど膝の痛みが酷くって・・・ 今はどうにか薬で散らしてる」

「大変だな。 ところで事故当日使っていたカメラはどうした」

「ああ、あれね。 あの夜、面会に来たボスに渡したわ。 でも私のミスでバッテリー充電し損なってて・・・ 多分何も撮れてないと思うわ。 これはここだけの話にしといてくれるかな?」

両手を合わせる櫻子。

「わかった。 それと乗っていたバイクは今どこにある」

「病院の駐輪場だと思うけど・・・ バイクがどうかしたの?」

「いや、ちょっと気になっただけだ。 櫻子が昔から愛用していたバイクだったろう?」

「まあねぇ。 でももう古くなったし今回の事故でフレームも歪んじゃったから、いっそ乗り換えようと思ってて」

「そうか・・・ もう少し入院生活が続くだろうが、今は仕事のことは忘れてゆっくり休んでくれ。 じゃ、俺はそろそろ行くよ」

「えっ、もう? ・・・あっ、でも来てくれて嬉しかったわ、ありがとう。 みんなによろしく伝えといて」

日下部は見送る櫻子に反応することなく病室を去っていった。

それからしばらくして、櫻子はベッドと壁の隙間で泡を吹き絶命した状態で発見される。 死因はパイに混入されていた青酸カリによるものだった。 そして駐輪場に止めてあったバイクからドライブレコーダーが本体ごと引きちぎられ、細かく割られたメモリーカードが辺りに散乱していたという。 こうして玲子を車で襲った男が日下部であったという事実は永久に闇の中へと葬られた。

 

事務所では進次郎と井出が宅配ピザの到着を待っていた。

「よし・・・ っと! ここら辺で晩メシ休憩にしますか~」

「あとどれくらい残ってるんだ?」

「報告書があと半分ほど。 30分ほどですかね」

コンコン・・・

と、ドアを叩く音がした。 

「あっ、きっとピザでしょう。 俺が出ます。 は~い、今行きますよ!」

井出が軽やかな足取りで入り口へと向かった。 

ガチャ。

「意外と早かった・・・」

ドアを開けると、そこには目出し帽を被った黒づくめの男が一人立っていた。 隆起した僧帽筋、分厚い胸板、そして爬虫類のような感情のない目。 井出は一瞬でその男が常人ではないことを理解できた。

ドサッ。

夜景を眺めていた進次郎が物音に気付き振り向くと、そこには胸にナイフが突き刺さったまま仰向けに倒れる井出の姿があった。 

「井出!」

井出を刺した男が事務所内へ踏み込んでくると、それに続いてもう一人男が入ってきた。 そして最後に入ってきた長身の男が、痙攣する井出の首に留めの一刺しを加えた。

「おい! 貴様ら誰だ!」

進次郎は咄嗟にデスクの引き出しから護身用の催涙スプレーを手にすると、左右から向かって来る男の一人に向け噴射した。 

「ぐあっ!」

スプレーは一人の顔面を捉えたものの、もう一人の男が鉄パイプで進次郎の手首をスプレーごと薙ぎ払った。

バキッ!

「うぐっ!」

手首を折られその場にうずくまる進次郎めがけ、容赦なく鉄パイプが何度も振り下ろされる。 

ガン! ゴン! ゴン!

頭や肩、背中を激しく打ちつけられた進次郎は、やがてできた血だまりに力なく倒れ込んでしまう。 そしてとどめの一撃を振りかぶる男に向かって長身の男が叫んだ。

「やめろ!」

鉄パイプはピタリと宙で停止した。

「チッ・・・ あと一発だったのに」

長身の男は倒れる進次郎に近づき胸ぐらを掴み上げると、血で染まった顔をジッと見つめ静かに言い放った。

「世の中知らなくていいこともあるんだ。 あんたは知りすぎたんだ・・・」

「ブッ・・・」

口をパクパクとさせながら男に何かを伝えようとする進次郎。 男はその口元へ耳を近づけた。

「・・・なぜ・・・ だ・・・」

ゆっくりと男の視界に入ってくる進次郎の指。 その指先はデスク上のモニターへと続いていた。

「これは・・・」

振り返る男が見たものは、画面一杯に映し出された幸太郎とΣ幹部、そしてボディーガードとして同行する日下部の姿を捉えた画像だった。

「・・・くさ・・・ か・・・ べ・・・」

内出血で塞がった瞼からわずかに覗く進次郎の目が、目出し帽姿の日下部をしっかりと捉えていた。

「おい、どうするんだ。 早く殺っちまわないと後々面倒なことになるぜ!」

焦る様子で日下部に問いかける鉄パイプの男。

バサッ。

「うわぁっ!!」

入り口の方から若い男の叫び声がした。 男達が振り返るとそこには井出の死体を見て廊下で腰を抜かすピザ配達人の姿があった。 

「おい、てめぇ! 待て!」

催涙スプレーを食らった男が目をこすりながら配達人を追いかけるも、視界が狭まっていたため倒れる井出に足を取られその場で転倒してしまう。 

 

その頃、待ち合わせ時間よりも早く事務所ビルに到着した茜は、ユキチの入ったケージを持ってエレベーターで5階へとやってきた。 

「ごめんね、あちこち連れ出しちゃって。 ・・・あっ、着いたわ」

扉が開いたちょうどその時、茜の目の前を配達人風の男が猛スピードで非常階段の方へと駆け抜けていった。 男は20歳前後の学生風、やせ型で背は175cmほど。 日焼けした肌で右頬にホクロが二つあり、瞳孔が極端に縮んでいたことからパニック状態にあったと思われる・・・ 茜は不思議なことにその瞬間の光景をまるでスローモーション映像のようにすべて捉えていたのだ。 そして同時に感じた頭痛のような左目奥の違和感。

「・・・何? またこの感覚・・・」

エレベーターを降りそっと事務所の方を覗き込むと、半開きになった扉の前で横たわるピザの箱。 不穏な気配を感じ取った茜は足早に事務所へと向かった。  

ギィ・・・

「誰かいるの?・・・」

ブレーカーの落とされた暗い室内は辺り一面に書類や写真が散乱し、それぞれのパソコンは原型を留めないほどに破壊されていた。 

「・・・何があったの?」

茜が更に一歩踏み入ると足元がぬるっと滑った。 恐る恐る視線を落とすと、そこには大きな血だまりとそこから壁際まで引きずられ横たわる人影が。 それは既に息絶えた井出の変わり果てた姿だった。 

「!!」 

茜はケージを置くとすぐさま井出の下へと駆け寄り、まだ温もりの残る体を揺さぶった。

「井出さん! 井出さん起きてください!」

人間は死ぬ間際の表情を残すと言うが、目をカッと見開いたままの井出の顔から何が起きたのかは容易に想像できた。 

「そ、そんな・・・」

井出の死を理解した茜は気が動転したままその場にへたり込んでしまう。 そしてふと顔を上げると奥で夜景を背に椅子に座る人影が見えた。 

「・・・ボス?」

茜は涙を拭いながら進次郎のデスクへと向かった。 椅子がクルリと回りいつものように「おかえり」と笑顔で迎えてくれることを願ったが、そこにあったのは全身の骨を砕かれ、血だるまと化した進次郎が力なく座っていた。 

「ひっ!」

あまりの衝撃に身がこわばり、茜は言い知れぬ恐怖と絶望の渦に引きずり込まれていった。 

「・・・そんな・・・ き、救急車を・・・」

身を震わせながら携帯で救急通報しようとしたその時、茜は自分の手が血で真っ赤に染まっていることにようやく気が付いた。

ドクン・・・

「うっ・・・」

とまた左目奥に重い痛を感じると、続けて目の前でフラッシュライトを何度も焚いたような不思議な感覚が茜を襲った。

「・・・何これ」

次の瞬間、背後に迫る殺気を感じた茜は咄嗟に身を屈めた。

ブンッ!

と風切り音と共に、固い棒状のものが頭上を猛スピードで横切った。 茜はすかさず振り向き見上げると、血塗られた鉄パイプを握る目出し帽の男がそこに立っていた。 

「へっ、上手く避けたな・・・ だが次はどうかな」

そう言うと男は口元を歪め、眼下の茜めがけ勢いよく鉄パイプを振り下ろした。 

ゴンッ!

確実に捉えたはずのその場所で目に入ったものは、床板にめり込んだ鉄パイプだった。

「な・・・」

驚く様子で顔を起こすと、目の前には無表情で立つ茜の姿があった。 男は続けて縦に横にと狂ったように何度も鉄パイプで攻撃を重ねるも、茜は白いロングスカートを可憐になびかせ、まるで舞うように次から次へと攻撃を避けていく。 

ブン! ブン! ブン!

「何なんだ!・・・ コイツ! ・・・全然当たらねぇ!」

ガンッ!

男の薙ぎ払ったパイプが壁板にめり込んだその時だった。 

シュッ!

バキッ!

「ぐあっ!!」

と骨の折れる音と共に男が床に崩れた。 低い姿勢から伸び切った茜のかかとは、男の膝を完全に撃ち抜いていた。 続けて茜は入り口のケージに手を掛けるもう一人の男の気配を捉えると、井出のデスクにあったラシャ切りバサミを手に取り、目にもとまらぬ速さでそれを投げつけた。

バスッ!

「ぐっ!」 

ガシャン!

重たいハサミは一直線に男の掌を貫き、ケージは床に落とされた。 

「な、何なんだ・・・ お前」

茜の変異は明らかだった・・・ ついさっきまでいたはずの震え怯える乙女の姿はなく、そこには妖しげな雰囲気を身にまとう鋭い目をした女が立っていた。 そして足元で流血する膝を押さえ呻く男に、茜は冷たい視線を落とし尋ねた。

「何者? なぜこんなことを」

「・・・」

男は無言のまま茜を睨みつけている。 

「どうやら口がきけないないみたいね・・・」

茜は視線を逸らすことなく男の首へそっと足を乗せた。 目出し帽から覗く男の目は一瞬恐怖におののいたが、茜は躊躇することなくその足をねじ込んだ。

ボキッ!

男は頸椎を踏み砕かれ敢え無く絶命した。 それを見ていたもう一人の男は、慌てて手に刺さったハサミを抜き取ると、ポケットからスタンガンを取り出し襲い掛かってきた。 

「野郎っ!」

バチバチッ!

茜は伸びた腕の先で青白い光を放つ高電圧スタンガンを退くように避けた。 男はひるがえると、その場で軽やかなステップを見せはじめた。

「プロボクサーの俺のパンチを避けるとはな・・・ おやおや?・・・ よく見りゃとんでもねぇ美人じゃねぇか・・・ すぐ殺るにはもったいねぇ・・・ コイツで眠らせてからたっぷり可愛がってやるよ・・・」

「口より先に手を動かしたらどう?」

「チッ!」

茜に挑発され男は踏み込むように前に出ると、手にしたスタンガンを高速で突き出した。

バチバチッ!

ドスッ!

背を丸めながら浮き上がる男の身体から、スタンガンだけが真っすぐ前方へ飛んでいく。 身を傾け繰り出された茜の膝頭は男の腹に深くめり込んでいた。

「がはっ!」

内臓が破裂したのだろう、男は泡を吹きながらその場でのたうち回ると、白目を剥きやがて動かなくなった。 そして茜は暗闇に潜む気配に対し背中越しに声を掛けた。

「隠れてないで出てきたら?」

事務所内に差し込む色とりどりの夜景の光が、近づいてくる男を次第に露わにしていく。 細身で背の高い、眼光の鋭いその姿に茜は思わず息を呑んだ。

「・・・なぜ、あなたが・・・ 日下部さん!」

黒いトラックスーツに身を包んだ日下部は、黙ったままじっと茜を見ている。 その目は冷たくもどこか物悲しい目でもあった。

「答えてください、なぜこんな・・・」

ダンッ!

続く言葉を遮るように日下部は一瞬で間合いを詰めると、固く握った拳で茜のみぞおちをえぐるように打ち込んだ。

ドスッ!

「がふっ!」

まるで図太い杭で体を貫かれるような重い衝撃を受け、茜は背にするパーテーションごと後方へ吹っ飛んだ。 

ガシャーン!

「くっ・・・」

日下部は激痛で身動きの取れない茜の下へ歩み寄ると、追い打ちを掛けるようにつま先を脇腹に突き刺した。

ドッ! 

「ぐっ!」

茜はゴロゴロと床を転がり、壁際に設置されたコピー機に当たって止まった。 顔を覆う長い黒髪から覗く口元には、血の混ざった胃液がこぼれていた。

「く・・・ 日下部・・・ さ・・・」

ドン!

助けを乞う茜の手を強く踏みつける日下部。 

ギリッ・・・   

「まだだ・・・ お前の力はこんなものじゃないはずだ。 立て!」

日下部は茜の髪を掴み上げ引きずるように進次郎のデスクへ寝かせると、その上にまたがり眼下にある美しい顔めがけ拳を振り下ろした。

バキッ!

「ぶっ!」

「どうした・・・ 痛いのか? 怖いのか? お前はそれが感じられるような人間ではないはず・・・ さあ目を覚ませ!」 

そう言うと日下部は茜の顔を容赦なく何度も殴りはじめた。

バンッ! バンッ! バキッ!

そして日下部は人形のように動かなくなった茜の顔を掴むと、隣で血だるまと化した進次郎の方へと倒した。

「この男を見ろ・・・ お前の好きな赤い血だ。 そして思い出せあの頃を」

混とんとする意識の中で、茜は血に染まった進次郎の顔を呆然と見つめていた。 不思議なことに、さっきまであった胸を激しく打ち付ける鼓動が次第に和らいていく・・・

 

「・・・オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ・・・ オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ・・・ オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ・・・」

それは混乱する茜の脳が作り出した幻覚か・・・ 薄暗い空間でこだまする真言と、同胞の頭上にかかげられた揺らぎ一つない灯。 一人の合図と共に抜かれた無数の刃は、風切り音もなく互いの友情を無情に断ち切っていく。 別れすら許されない過酷な試練に乙女たちは血涙を散らせながら一人、また一人と倒れていく。 そして生還者に与えられる称号と肉体に刻まれる消すことのできない赤い印・・・ それら断片的な記憶が脳裏をフラッシュバックしていった。

 

「・・・オン・・・ ベイシラマンダヤ・・・ ソワカ・・・」

茜が無意識にその言葉を口にした時、左目の周囲がぼんやりと赤く光りはじめ、白い”ベイ”の種字が一瞬浮かぶと目の中へ沈むように消えていった・・・ 

その光景を目の当たりにした日下部は、それまで見せたことのなかった喜びに満ちた表情で、茜の顔めがけとどめの一撃を放った。

「さらばだ!」

バンッ!

次の瞬間、日下部が振り下ろした拳がピタリと止まり、みるみるうちに苦悶の表情へ変わっていく。 

「ぐっ!・・・」

茜に受け止められた左拳は、無残にも潰れたトマトのように握り潰されていたのだった。 素早く宙を舞いながら後退した日下部の前には、ボロボロになった茜がゆらりと立っていた。

「暁・・・ 見参・・・」

日下部に向けられた殺意に満ちた刺すような目は、もはや茜のものではなかった。 そして左目の周りに丸く浮き出た赤の刻印。

「・・・そうだ、その印こそが暁の名を継ぐ者!」

日下部は血が滴る左手を腰に当て、右手の二本指を突き出し刀印の構えを取ると、素早く宙で九字を切った。

「・・・烈、在、前。 さあ来い! 暁!」

ドン!

と床を蹴る音と同時に、日下部はバランスを崩すように大きくよろけた。 

「なっ・・・」

違和感を感じた日下部が視線を落とすと、左腕の肘から先があらぬ方向へねじ曲がっており、目の前にいたはずの茜は一瞬で日下部の背後に回っていた。

「ぬうっ!」

日下部も負けじと身を翻しながら忍ばせていた棒手裏剣を放つも、覚醒した茜はそれをひらりとかわし、棒はトントントンと固い壁に突き刺さった。 

「やるな!」

続けて日下部は自席に置いてあった蝙蝠傘を手に取ると、握り部分に隠してあった仕込み刀で素早く切りかかった。

シュバッ!

その瞬間、空中でスカートが大きく裂け白く長い脚が露わになった。

タタッ・・・

「今のは手ごたえがあったぞ」

白いスカートの切り口が血でみるみる赤く染まっていく中、よろりと壁にもたれる茜。

「ふっ・・・ この刃には神経毒が塗ってある。 あと1分ほどでお前の身体は自由を奪われるだろう。 さあどうする?」

「・・・」 

茜は日下部の姿を視界に捉えたまま、おもむろにスカートのホックに手を掛けるとスルリと脱ぎ落とし、続けて瑠璃色のブラウスのボタンを外しはじめた。 

パサッ・・・

そして日下部の目の前には、均整の取れた芸術品のような肉体と、天女のように白く透き通った肌を持つ茜の一糸まとわぬ姿があった。  

「そうきたか・・・」

暗闇の中で輝く茜の妖艶な姿を前に、日下部は動揺したのか一瞬目を閉じた。 茜はその瞬間を見逃すことなく、溜め込んでいた気を指先に集中させ日下部の胸元へ音もなく飛び込んだ。

ドスッ!

顔を寄せ合い睨み合う二人。 そして日下部はニヤリと笑みを浮かべると仕込み刀を床に落とした。

カラン・・・

茜の手刀は日下部のみぞおちを貫いていた。 同時に茜の顔から刻印が消え、穏やかな表情へと戻っていった。

「ごふっ・・・」

「日下部さん!」

吐血し跪く日下部を支えながら床にそっと寝かす茜。 かすみゆく視界は毒ではなくあふれ出る涙によるものだった。 そう、仕込み刀にははじめから毒など塗られてはいなかったのだった。 

「どうして・・・ 今手当を」

日下部は天井を見つめたままゆっくりと語り始めた。

「何もしなくていい・・・ 俺はもう助からん」

「そんな・・・ すぐ治療すればなんとかなるかも」

茜が日下部のシャツをめくると、腹には何重にも巻かれた包帯が血で真っ赤に染まっていた。 日下部は茜がここへ来る前にすでに影腹をしていたのだった。

「なんてことを・・・」

「俺は金の為に仲間を裏切った・・・ 裁きは自らの手で下すのが忍びの掟だ」

「まさか娘さんの為に?」

「ああ、だが遅かった・・・ 里香は逝った」

日下部の娘は長い入院生活の末、臓器提供者が見つかるも合併症による他機能不全で静かに息を引き取った。 それは奇しくも母親の命日と同じ日だった。 日下部の目尻から流れ落ちる一筋の涙。 それはあの日以降伏せられていた感情が蘇ったことを意味していた。

「日下部さん・・・」

「俺に残された使命はお前を覚醒させること・・・ 見えたはずだ、己に刻まれた種字と真言を」 

「さっき自然と出たあの言葉・・・」

「そうだ・・・ 多聞天の力を宿すお前はその真言を唱えた時、暁となる」

「暁・・・」

「神保・・・ お前は甲賀二十一家の血を引くくのいちの末裔、そしてその頂点に立つ四夜の一人・・・ 第18代暁。 秘められたその力で弱者を救い、この腐った世の中を浄化してくれ・・・ 聞け・・・ 死んだとされるお前が生きてた事実を香霧は既に把握済みだ。 近い将来、放たれた刺客と相まみえる事になるだろう・・・  いいか、新月の逢魔時には気を付けろ・・・ ぐっ・・・」

茜は日下部の腹に手を当て止血を試みるが、既に呼吸の乱れと失血による体温低下が始まっていた。

「日下部さん、しっかりして!」

茜は咄嗟に日下部の冷めた手を握り、祈るように真言を唱え始めた。

「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ・・・ オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ・・・」

その時、茜の脳裏に見たことのない記憶が映し出された・・・ 

それはとある片田舎に佇む民家の玄関先。 一人の少女の目線に降り小さな頭を優しく撫でる手と、その隣でゆっくりと首を垂れる母親らしき人物。 そして小さい手を引かれ歩く少女は、何度も後ろを振り返り笑顔で大きく手を振る。 少女はこちらを見てにっこり微笑むと、再び伸びた手がその頭を優しく撫でた・・・ 

そして場面は香霧の本部らしき施設へと変わり、そこには謀反を起こし囚われの身となった茜が目隠しをされ鎖に繋がれている。 頭首らしき人物から手渡された刀を手に茜に近づくと、顔を傾けそっと刃を左の首筋へ当てた。 素早く真横に引き抜かれる刀、そして一瞬にして赤く染まる視界・・・ 

再び場面が変わり、茜の首に新しい包帯を巻く男の手。 偽装処刑から生還した茜は、あの時と同じような笑顔をこちらへ見せた・・・ 

「・・・あなたは・・・ もしかしてあの時の・・・」

日下部の手を介し見えたもの・・・ それはかつて国家直属の諜報部隊”香霧”の指導教官して、茜を陰で支え見守ってきた日下部が見てきた記憶だった。

「俺の目に狂いはなかった・・・」

「・・・はい・・・」

その言葉を耳にした日下部の顔が、苦しみから解放されるように安堵に満ちた穏やかな表情に変わると、茜に見守られながら静かに息を引き取った。

「オン・ベイシラ・・・ ・・・ 」

その場でうずくまるように背中を震わせる茜。 日下部涼・・・ 愛する者たちを殺めた許さざるべき相手。 また、愛すべき師でもあった。

「さようなら日下部さん・・・」

背後から茜の肩にそっと掛けられる薄手のカーディガン。 振り向くとそこには玲子が立っていた。 

「野口さん・・・」

「その方、日下部さんという名だったのね・・・ 無口な人だったけどあの人の仲間の中で唯一私を人として優しく扱ってくれたわ」

玲子もまた涙していた。

「助けられなかった・・・ 私、誰も助けることができなかった・・・」

玲子は泣き崩れる茜の前にかがみ、そっと手を取ると首を左右に振った。

「いいえ、まだ一人いるわ・・・」