Kitです。

”人から嫌われること”について、あの偉人(異人)のイチローが「ゾクゾクするくらい嬉しい」と語っていた。 理由は「意識されている」ということらしい。 私も全く同感なのだが、私はそれとは別に「好かれたくない」という気持ちを持っている。 ファンあってのアーティストがこのようなことを言ってしまうのは問題があるかもしれないが、正直、旅の途中の自分に対し敬意のまなざし向けてほしくないのである。 これは謙遜ではなく、私は名の知れた作家でもなければ実力者でもない、影響力など微塵ももってなどいないどこにでもいる自称アーティストの一人に過ぎないのだ。そんな私は「ファンです」と来る人に対し、心の中ではいつも「この程度の人間を崇めるあなた、程度が知れますよ」と思っているかなり屈折したジジイなのである。

少し話を飛ばしてみる。
30年近く業界に身を置いていれば、誰もが羨む地位や名誉を獲得する手段は知っているし、その気になればアーティストとして幾らでもその道へシフトすることも出来たであろう。 だが私はしなかった。 理由は一つ、その先に見えている高みは人々の想念、概念が作り出した場所、つまりそこでしか生きることができないという現実。人は意識的に何かを作り出す。 特に利害を軸としたものほど脆く瞬間的なものである。 循環させることを原則とする資本主義思想下では至極当然の考えではあるが、私はそれを倣うことも沿うこともできなかったししなかった。 なぜなら私の目指すアートの役割とは、唯一無二の存在として未踏の頂へたどり着くことだったから。 雇われながらそれができるとするなら、それは本来目指すべきものではないはず。
これはアートの世界に飛び込んだ時から全く変わっていない揺るぎない”信念”なのである。そして勤めの道へ入った時、「最強の裏方になる」という考えを決めたのである。

この世はただ一度きりの現し世。 開かれた道で「何をやれたか」かではなく、自分らしく「何を貫けたか」でありたいのだ。
「好き」という言葉は、それくらいの覚悟を持って臨んで者に対して贈る言葉ではなかろうか。 取り繕うだけの”枷”のような「好き」をくれるなら、いっそ嫌いになってくれた方がマシとさえ思う。

そんな私をいつも好きでいてくれてありがとうございます。でも本当に好きかどうかは、私の旅が終わったその時に判断してください。 今はただ見てくれるだけで、それだけで私は幸せなのです。私はそんなあなたのことが大好きです。

ありがとう。
Kit.